創刊の辞「国賊は討て!!」 混乱の日本に国士出でよ!

(敬天新聞 令和8年8月号2面)


(1面の続き)


私は徴兵制度もあった方が良いと思う。有事の際の心構えという意味もあるが、それよりその期間にみっちり、日本人としての誇り、忠孝、礼儀、倫理、武道を学ぶのです。

今の日本はまだ一度も来たことのない外国人から見れば宝の国=ジパングに見えるかもしれないけど一度住んだ外国人からは「来てみればさほどでもなし富士の山」(遠くから見たら美しい富士山も近くに来て見たら結構ゴミは多いし枯木も多い)と見抜かれてしまうだろう。しかし子供達ばかり責められません。大人の社会こそ改めなければならない難問が山積されてるからであす。

例えば先の戦争で亡くなられた方の英霊が祀られている靖国神社に公式参拝も出来ない政府のだらしなさ、中国人と日本人は死生観が違うのだから堂々と述べればよい。中国人は死して尚鞭打つの言葉通り、死んでもまだ許さないという考えであるが日本人の場合、どんな悪人でも死んでしまえば「成仏する」とか「成神する」とか言って許してしまう寛大な気持ちを持っている。

またキリスト教には神は一人しかいないが日本には山の神、海の神をはじめ八百万の神がいるのだ。ほとんどの家庭に神棚があり仏壇もあり、そして墓もあるのだ。

田舎を歩いて古い神社や寺を見つけたら、たいていの日本人は自然と手を合わせる。いちいち何宗ですか、何教ですかなどと聞かない。これが日本人の宗教観なのだ。近隣諸国に遠慮することはない、もうそろそろハッキリと日本の立場と意見を述べなければならない時代に来ていると思う。政治家に望むことは「治まりて乱を忘れず」と「衆を得れば国を得」を実践して戴きたい。安っぽい権力闘争などしている場合ではないのだ。政治家こそ、命を賭けてこの国を守るという気概が必要なのだ。政治家だけではない。

この国をリードしている行政は政治家の劣化を奇貨として、その支配権を増殖し恣意の儘、その官僚権力を行使するに至り、経済界の自己企業の経営防御に専念して社会資本の蓄積に貢献することを怠り、また多くの公益法人が私企業化して営利を貪るのを許容し、宗教法人が何兆円もの財を蓄積し、更に財を増殖するため都市銀行が力を貸し、その営業を推進しても無視許認し、その宗教法人が多数の政治家を擁して立法府・行政府を支配して政教癒着しても放置しているのである。

このような日本国の現状を打開する一助になればと「国賊は討て」の旗印の下、国士啓蒙運動を始めることに致しました。若輩微力な我々がどれだけの風穴を開けられるかわかりませんが、先輩諸氏の御指導を仰ぎながら、ある時は石に立つ矢の如くまたある時は水滴石を穿つの精神で巨悪に戦いを挑んでゆく覚悟であります。それから毎週水曜日夕方五時三十分より『白倉康夫の天下御免』と称しまして、啓蒙運動をやっております。機会がありましたら是非一度、足を御運び戴き生の声も聴いて戴きたいと思います。この国の永遠の平和と発展を願って創刊の挨拶にかえさせて戴きます。皆様の暖かい御支援よろしくお願い申し上げます。



祝 辞

 真の国士は

   どこにありや

       安藤 昇

 男の怒りに私憤と義憤の二つあり。

「我」を生かし、見栄面子で怒るのは私憤にして匹夫の勇なり。

「我」を殺し、普遍の正義を以って怒るのは義憤にし侠(おとこ)の勇なり。

私憤に生命(いのち)を賭するを与太者、義憤に生命を賭するを「国士」と呼ぶ。両者は似て非なるを知るべし。

国士の歩む道は正直なれど、火中の栗を拾うが如く労多くして報われることの少なし。

 平成太平の世に真の国士は何処にありやー。

   *

 白倉康夫君、敬天新聞の創刊おめでとう。

政治屋、大蔵官僚、金融機関、大宗教という「政・財・官・教」が一体となって国民の血税を貪り私利私欲に走るいま、熱血の漢たる君が《国士の筆誅》を以てこれを糾弾するのは誠に

痛快至極。信ずる処にしたがって奔馬の活躍を期待します。

 継続は力なりー。

たとえ牛歩といえども歩き続けるならば、やがてその足跡は千里の道に印されることになるでしょう。

 国士啓蒙家・白倉康夫君の前途に幸いあれ。

(創刊号から安藤昇先生の祝辞を原文のまま再掲させていただきしました)




平成8年11月20日発行の敬天新聞 創刊号





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